2012年11月11日日曜日

明治創業の日本一美味しいかもしれない鰻屋 竹屋

鰻といえば何だか東京界隈の食べ物のような気がするが、実は佐賀にも有名な鰻屋がいくつかある。佐賀市内の有名処といえば「本庄うなぎ屋」。そして唐津市内には、明治創業の鰻屋「竹屋」。

かつては造り酒屋や魚屋、八百屋が並んだ唐津城下の台所。今でも町屋の面影が漂う「中町」にその鰻屋はある。




唐津くんちの準備で活気づく10月の始めに訪れた。中町は唐津くんちの曳山のなかでも2番目に古い青獅子(1824年)を所有している。青、というよりは緑色の獅子の姿は、中町よりも5年早く完成した刀町の赤獅子よりも躍動感があるつくりで、曳子たちが着るハッピの緑色は、赤や黒が基調の巡行行列の鮮やかな差し色となっている。




店の軒先に表札のような簡素な看板。思わず通り過ぎてしまいそうになる。
玄関の右手には厨房があり、白いタオルを頭に巻いて鰻を焼いている若主人に声をかけた。
「予約していないんですけど・・・」
「いいですよ~ お好きなところへどうぞ~」

江戸時代に刀砥ぎをしていた当主が明治の廃刀令を機に始めた鰻屋。建物自体は大正12年(1923)築の三階建てで、有形文化財に指定されている。1923年といえば関東大震災の年だが、我らがシンガポール建国の父、リークワンユーの生まれた年でもある。なんと建築当時からある料理運搬用のエレベーターも有形文化財だ。

目の前の階段を上りたくなりつつも、左手の部屋にある席に座る。




建築当初の面影が保たれた店内。箪笥は江戸時代のものらしい。母が店内を見回しつつ、「あ、ここに縁があるねぇ、ここは昔は押入れだったかもしれんね。押入れがあったってことは、ここは使用人さんの部屋だったとやろうか」と思いを巡らす。




白い陶器製の碍子(がいし)に、当時は布巻きだった電線を引き、壁から浮かすことで絶縁を確保した、古くからの「碍子引き配線」。母はしきりに「懐かしかねえ」を繰り返す。小津安二郎の映画に出てきそうな雰囲気だ。

さて、お待ちかねの鰻である。かつては地元・松浦川で獲れた鰻を焼いていたそうだが、今は鹿児島産を使っているとのこと。独自の方法でしめて、創業当時から変わらぬ調理法で、蒸さずにじっくり焼いて作っている。主なメニューは、鰻丼、鰻の白焼き、そして蒲焼とご飯が別々に出される鰻定食。やはり鰻丼をと、並・肝吸い付きを注文した。ちなみに鰻丼の並、上、特上は蒲焼の量の違いである。




並は4切れ。これで1本分。竹屋の鰻は小ぶりで身が締まっている。タレは九州らしい甘目の味。しつこく感じないのは、時間をかけて焼く間に余分な脂がしっかりと落ちているから。表面は香ばしく、中はふかふかだ。ご飯は地元の棚田米。溜息が出来るほど美味い。

東京に住んでいたころは何かと鰻丼を食べる機会が多かったのだが、竹屋の鰻丼は鰻・米共に格別。心底、日本一美味しい鰻屋だと思っている。

さて、竹屋の対面には赤レンガ造りの旧唐津銀行本店がある。東京駅を設計したことで知られる辰野金吾が監修、明治45年(1912)に竣工した。今からちょうど100年前だ。




私たち世代には佐賀銀行唐津支店として馴染みがあるが、佐賀銀行の大本も実はこの唐津銀行。明治以降、唐津の石炭産業とともに発展し、当時は地方都市繁栄の象徴と言われていた。100年経って様変わりした唐津の街を、この建物はどんな気持ちで見つめているのだろう。




かつての窓口。改めて見るとこんなに重厚だったのだ。ちょっと前まで「トムとジェリーの佐賀銀行」のポスターが貼ってあったとは思えない。




かつての金庫。当時はどんな財宝が入っていたのだろう。




唐津銀行と刻印されている。日章旗と米をあしらったロゴが時代を感じさせる。




銀行の前には昔懐かしい円柱形のポストが。

時代は変われど、この城下町で変わらぬものは、人の手によって残されたいくつかの有形文化財と温かい人情。生まれ育った場所なのに何度そぞろ歩いても飽きないのはそのためだろう。

これからも美味しい鰻を焼き続けてくださいね。

ごちそうさまでした!


竹屋
佐賀県唐津市中町1884-2
0955-73-3244




刀町やんね、と突っ込まれそうですが。

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